馬場信武
- 2014/01/16
- 20:00
『断易指南鈔』は、新井白蛾の『易学小筌』における即時占のネタ元の可能性があるというが、真偽は兎も角として、著者の馬場信武(??~1715)は、江戸時代の易占に大きな影響を与えた人物である。
しかし、その名は、白蛾、中州、随貞といった人々ほどには、今日知られていないようだ。
馬場美濃守信房五代の後裔を称し、名を信武、字を玄俊、号を時習斎、梅翁軒といい、医師としての名は尾田玄古と称した。
天台宗四世照高院門跡道尊法親王の図書に召され、門跡没後医者となる。
また、元禄(1688~1704)頃から「教来寺弥兵衛」という書肆を経営した。
易学以外に、兵学や日本の古典にも造詣が深く、中国の通俗軍書の翻訳・制作も行うという、恐るべきマルチ文化人だったらしい。
それらも、単なる余技のレベルではなかったらしく、浮世草子『風流夢浮橋』の作者・雨滴庵松林は、信武ではないかとする説もあるという。
肝心の易については、『易学啓蒙説統』や『易経図解』、『梅花心易掌中指南』などの著書があるが、特に断易の占法を広めることに努めたようで、その成果として『初学擲銭抄』(後に『断易指南鈔』と改題)、『周易一生記』(周易の二字を冠しているが、中身は断易をもとにした即時占)の二著がある。
奈良場勝先生によれば、『周易一生記』は、「そくじの占」の語が初めて用いられた書物と見られ、あるいは「即時占」の名付け親 は馬場信武の可能性があるという。
もっとも、今日の断易家からは、信武の断易書はすこぶる評判が悪いようだ。
本来、精緻極まりない占法である断易を「おみくじ占」に貶めたからであろう。
信武についての初めての纏まった研究である長友千代治先生(1936~)の「近世における通俗軍書の流行と馬場信武、馬場信意」(昭和51年)によると、信武の墓は、息子の信意(1669~1728)の墓碑と共に鳥辺山の通妙寺(浅見絅斎の墓所の近く)に在ったらしいが、無縁処理されて現在行方不明となっている。
しかし、信意の墓は現存を確認出来た。
馬場信意は、晩年に山川素石と称したので、墓碑には「山川素石信意墓」と刻まれている。
すでに碑面の半分は剥落して読めない状況であるので、信武の墓が残っていたとしても判別は難しいかもしれない。
信意は、易に関しては継承しなかったようだが、兵学の分野を受け継いだらしく、軍記物を多く残している。
しかし、その名は、白蛾、中州、随貞といった人々ほどには、今日知られていないようだ。
馬場美濃守信房五代の後裔を称し、名を信武、字を玄俊、号を時習斎、梅翁軒といい、医師としての名は尾田玄古と称した。
天台宗四世照高院門跡道尊法親王の図書に召され、門跡没後医者となる。
また、元禄(1688~1704)頃から「教来寺弥兵衛」という書肆を経営した。
易学以外に、兵学や日本の古典にも造詣が深く、中国の通俗軍書の翻訳・制作も行うという、恐るべきマルチ文化人だったらしい。
それらも、単なる余技のレベルではなかったらしく、浮世草子『風流夢浮橋』の作者・雨滴庵松林は、信武ではないかとする説もあるという。
肝心の易については、『易学啓蒙説統』や『易経図解』、『梅花心易掌中指南』などの著書があるが、特に断易の占法を広めることに努めたようで、その成果として『初学擲銭抄』(後に『断易指南鈔』と改題)、『周易一生記』(周易の二字を冠しているが、中身は断易をもとにした即時占)の二著がある。
奈良場勝先生によれば、『周易一生記』は、「そくじの占」の語が初めて用いられた書物と見られ、あるいは「即時占」の名付け親 は馬場信武の可能性があるという。
もっとも、今日の断易家からは、信武の断易書はすこぶる評判が悪いようだ。
本来、精緻極まりない占法である断易を「おみくじ占」に貶めたからであろう。
馬場信武の子・馬場信意の墓(京都通妙寺)
信武についての初めての纏まった研究である長友千代治先生(1936~)の「近世における通俗軍書の流行と馬場信武、馬場信意」(昭和51年)によると、信武の墓は、息子の信意(1669~1728)の墓碑と共に鳥辺山の通妙寺(浅見絅斎の墓所の近く)に在ったらしいが、無縁処理されて現在行方不明となっている。
しかし、信意の墓は現存を確認出来た。
馬場信意は、晩年に山川素石と称したので、墓碑には「山川素石信意墓」と刻まれている。
すでに碑面の半分は剥落して読めない状況であるので、信武の墓が残っていたとしても判別は難しいかもしれない。
信意は、易に関しては継承しなかったようだが、兵学の分野を受け継いだらしく、軍記物を多く残している。
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