達人伝説の虚像①
- 2017/05/24
- 18:29
「読象の妙は白蛾にきわまり、読卦の妙は真勢中州にきわまり、読辞の妙は呑象にきわまる」とは、敬愛する薮田嘉一郎先生の言であるが、この三人は我が国近世における易占の達人として誰もが其の名を知る存在である。
しかし、本当に彼らは私たちが想像しているような精義入神の達人であったのだろうか。
捻くれ者の私は、彼らに対する信仰に似た闇雲で無批判な賞賛を見聞する度に、そのベールを剥ぎ取って、連中を栄光の座から引きずり下ろしてやりたいという衝動に駆られるのである。
この三人の中で最もリアリティを伴った存在感を持っているのは、大正三年まで存命であった高島嘉右衛門であろう。
その名占例の数々を、我々は畢生の大著『高島易断』(明治19年初版)で知ることが出来る。
呑象が易占史上特筆すべき偉人であることは論を俟たぬし、その占例も切れ味抜群のものが揃っているように思う。
しかし、これらは自らの著書(実際には代作であるが)において開陳されたものであって、その占の実際がそのまま披瀝されているとは言い難いところがある。
私は、同好の士から、経文の学習と並行して座右に置くべき占例集を尋ねられた時など、決まって宇沢周峰先生監修の『易占例集』(虹有社/2004年刊)を推薦するのを常としていて、それは同書が捻くれていない爻辞そのままの占例を収載している為であるが、まさか実際の占でこんな綺麗な卦爻ばかり得ている訳ではあるまい。
これは、学習の参考図書として、綺麗な占例ばかり集めたところに意味がある訳で、毎度こんな判りやすい占事そのままの得卦ばかりなら、誤占など絶対にしよう筈がない。
私は『高島易断』も、同様に神憑った占ばかり収載されたもので、凡夫な占も、誤占だって屡々あったのではないかと思っている。
呑象の誤占例として知られる所謂畝傍艦占にしても、自分が占った時点では無事だった筈であるとか、苦しい言い訳をしているが、先に新聞に出て誤魔化し遂せなかっただけなのではないか。
高島嘉右衛門が我が国の占術史上最もスケールの大きな人物であったことは、その実業家としての足跡にも表れているが、そのビジネスも順調に行かずに失敗したものも少なくなかったという話を聞いたことがある。
所謂高島学校を例に挙げるなら、福沢諭吉の招聘には失敗し、校舎そのものも僅か三年で焼失してしまっており、嘉右衛門の後を嗣いだ高島嘉兵衛など、呑象在世中の1908年に早くも破産してしまっているのである。
自身の事業について事ある毎に筮を執っていたのかどうかは判らぬが、得てして、こういう人物の事績では、失敗が没却されて成功譚のみが残り易い点があろう。
勿論、明治の元勲が度々国家規模の占を依頼して来た辺り、その的中率が並はずれていたことは容易に想像出来るが、そもそもそんな総理大臣クラスの人間が困り果てて依頼して来るような場合、間違いなく占機の取れた筮となった筈で、私でも同じようなシチュエーションならそうそう誤占はしない自信がある。
そもそも、政財界の大物が占者としての呑象を頼ったのは、易の腕前もさることながら、その大人物たる点にこそ理由があったのではなかろうか。
伊藤博文などは易辞を暗唱することも出来たほどであるから、その気になれば自身で筮を執るくらいのことも出来なかった訳ではなかろう。
博文に限らず、明治の政財界にはそんな人間は少なからず居たことは想像に難くない。
今の易のえの字も知らない政治家連中が怪しげな占い師を頼るのとは訳が違うのである。
そんな時代に、幕末維新を潜り抜けて来た歴戦の猛者達が、街頭の乞食同然の易者を頼ることなどある筈がなく、易の名人として聞こえ、かつ、日本の近代化に奔走した呑象を頼ったのは、私には当然過ぎるほど当然に思える。
また、呑象は、伝馬町の牢獄に入っていた時、隠居畳の掃除中に偶然『易経』を発見したというのだが、この話はあまりにも作り話めいていて、私には到底事実とは思われない。
むしろ、今東光氏が唱えた、獄を同じくした儒者によって伝を受けたとする説の方が遥かにありそうな話だと思う。
高島嘉右衛門は、易の名人でもあったが、今日の私たちが思っている以上に山っ気のあった人物ではなかったか。
しかし、本当に彼らは私たちが想像しているような精義入神の達人であったのだろうか。
捻くれ者の私は、彼らに対する信仰に似た闇雲で無批判な賞賛を見聞する度に、そのベールを剥ぎ取って、連中を栄光の座から引きずり下ろしてやりたいという衝動に駆られるのである。
この三人の中で最もリアリティを伴った存在感を持っているのは、大正三年まで存命であった高島嘉右衛門であろう。
その名占例の数々を、我々は畢生の大著『高島易断』(明治19年初版)で知ることが出来る。
呑象が易占史上特筆すべき偉人であることは論を俟たぬし、その占例も切れ味抜群のものが揃っているように思う。
しかし、これらは自らの著書(実際には代作であるが)において開陳されたものであって、その占の実際がそのまま披瀝されているとは言い難いところがある。
私は、同好の士から、経文の学習と並行して座右に置くべき占例集を尋ねられた時など、決まって宇沢周峰先生監修の『易占例集』(虹有社/2004年刊)を推薦するのを常としていて、それは同書が捻くれていない爻辞そのままの占例を収載している為であるが、まさか実際の占でこんな綺麗な卦爻ばかり得ている訳ではあるまい。
これは、学習の参考図書として、綺麗な占例ばかり集めたところに意味がある訳で、毎度こんな判りやすい占事そのままの得卦ばかりなら、誤占など絶対にしよう筈がない。
私は『高島易断』も、同様に神憑った占ばかり収載されたもので、凡夫な占も、誤占だって屡々あったのではないかと思っている。
呑象の誤占例として知られる所謂畝傍艦占にしても、自分が占った時点では無事だった筈であるとか、苦しい言い訳をしているが、先に新聞に出て誤魔化し遂せなかっただけなのではないか。
高島嘉右衛門が我が国の占術史上最もスケールの大きな人物であったことは、その実業家としての足跡にも表れているが、そのビジネスも順調に行かずに失敗したものも少なくなかったという話を聞いたことがある。
所謂高島学校を例に挙げるなら、福沢諭吉の招聘には失敗し、校舎そのものも僅か三年で焼失してしまっており、嘉右衛門の後を嗣いだ高島嘉兵衛など、呑象在世中の1908年に早くも破産してしまっているのである。
自身の事業について事ある毎に筮を執っていたのかどうかは判らぬが、得てして、こういう人物の事績では、失敗が没却されて成功譚のみが残り易い点があろう。
勿論、明治の元勲が度々国家規模の占を依頼して来た辺り、その的中率が並はずれていたことは容易に想像出来るが、そもそもそんな総理大臣クラスの人間が困り果てて依頼して来るような場合、間違いなく占機の取れた筮となった筈で、私でも同じようなシチュエーションならそうそう誤占はしない自信がある。
そもそも、政財界の大物が占者としての呑象を頼ったのは、易の腕前もさることながら、その大人物たる点にこそ理由があったのではなかろうか。
伊藤博文などは易辞を暗唱することも出来たほどであるから、その気になれば自身で筮を執るくらいのことも出来なかった訳ではなかろう。
博文に限らず、明治の政財界にはそんな人間は少なからず居たことは想像に難くない。
今の易のえの字も知らない政治家連中が怪しげな占い師を頼るのとは訳が違うのである。
そんな時代に、幕末維新を潜り抜けて来た歴戦の猛者達が、街頭の乞食同然の易者を頼ることなどある筈がなく、易の名人として聞こえ、かつ、日本の近代化に奔走した呑象を頼ったのは、私には当然過ぎるほど当然に思える。
また、呑象は、伝馬町の牢獄に入っていた時、隠居畳の掃除中に偶然『易経』を発見したというのだが、この話はあまりにも作り話めいていて、私には到底事実とは思われない。
むしろ、今東光氏が唱えた、獄を同じくした儒者によって伝を受けたとする説の方が遥かにありそうな話だと思う。
高島嘉右衛門は、易の名人でもあったが、今日の私たちが思っている以上に山っ気のあった人物ではなかったか。
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