達人伝説の虚像②
- 2017/05/25
- 18:43
加藤大岳氏の大成せし“昭和の易”は、易占法における近代化の所産であるが、それは大島中堂を経て、真勢中州の易法が其の源流を成したものと見て良い。
高島嘉右衛門もまた真勢の易法に尋常ならざる興味を抱いていたことが、中国語版『高島易断』に見えている。
私は真勢易に関しては、薮田嘉一郎先生の説を中心として、批判的な見地から過去に幾度も取り上げて来たが、ここでもう一度この問題を再論しておきたいと思う。
薮田先生の真勢易羅州潤色説は、再三取り上げて来たので、これ以上繰り返すことは控える。
ここでは、得卦論を論じて来た延長として、所謂不応卦の観点から、中州名人説に少々イチャモンをつけてみたい。
先に触れたように、中州は不応卦を認める立場を採る。
ということは、中州自身、不応卦を得た経験があったのだろう。
そして、得卦の内卦と二爻の爻卦が同じか、外卦と五爻の爻卦が同じであれば、これを神明に酬錯していると見るなどという口訣の役に立たないことは火を見るよりも明らかであるから、中州と言えども、得卦が不応である否かを判別するのは容易ではなく、長年の経験に拠らざるを得なかったものと思われる。
恐らく中州は、白蛾や呑象以上に神憑った占筮家であったのではないかと私などは想像しているのだが、だとしたら、猶更その占には諸分野の天才たちに共通してみられるような大きな波があったのではないかと思う。
不応卦による誤占だって低潮期には少なくなかったのではなかろうか。
ところで、私には真勢易と聞いて世人の思い浮かべるものが、所謂脇差占や平四郎占、美人の妹圧死占などである点が甚だ面白くない。
あれらは完全に特殊例に属するもので、占例を紹介した後で、谷川龍山も「先生の占とても悉くが此のような神発のものばかりであったわけではない」と言っている。
これらが実際の占事のありのままの記録と見做して良いのかどうかも議論すべき点があるように思われるが、それは一先ず置いて、人並み以上の占者なら、絶頂期には神憑った占の一つや二つは必ず経験がある筈で、私でさえ、そういう経験を幾らか持ち合わせている位だ。
それが、爻卦やら生卦法やらによって多くの情報を引き出し得る占技を常法としている占者なら、絶頂期にああいう占を幾らか為しえたとして不思議ではないと私は思う。
まして、中州に霊感めいた能力が幾らかあったとしたら、言わずもがなである。
しかし、得てして霊感に頼る占者の絶頂期は実に短く儚いものだ。
中州の晩年がその前半生と共に謎に包まれているのは、その辺りの事情を物語っているのではないかとも思う。
また、中州の名占とされるものは、門人がこの得卦からどれだけのことが判りますかと問いかけたのに対する答えとして占考されているが、これらの占例が門人の書物に出ている以上、当たった占だけが載せられているのは当然過ぎるほど当然である。
龍山が「神明ノ占ハ神発ニアリ」「先生ノ占トテモ一一ニ如此ニハアラズ」と言っているのをよく玩味すべきではあるまいか。
高島嘉右衛門もまた真勢の易法に尋常ならざる興味を抱いていたことが、中国語版『高島易断』に見えている。
私は真勢易に関しては、薮田嘉一郎先生の説を中心として、批判的な見地から過去に幾度も取り上げて来たが、ここでもう一度この問題を再論しておきたいと思う。
薮田先生の真勢易羅州潤色説は、再三取り上げて来たので、これ以上繰り返すことは控える。
ここでは、得卦論を論じて来た延長として、所謂不応卦の観点から、中州名人説に少々イチャモンをつけてみたい。
先に触れたように、中州は不応卦を認める立場を採る。
ということは、中州自身、不応卦を得た経験があったのだろう。
そして、得卦の内卦と二爻の爻卦が同じか、外卦と五爻の爻卦が同じであれば、これを神明に酬錯していると見るなどという口訣の役に立たないことは火を見るよりも明らかであるから、中州と言えども、得卦が不応である否かを判別するのは容易ではなく、長年の経験に拠らざるを得なかったものと思われる。
恐らく中州は、白蛾や呑象以上に神憑った占筮家であったのではないかと私などは想像しているのだが、だとしたら、猶更その占には諸分野の天才たちに共通してみられるような大きな波があったのではないかと思う。
不応卦による誤占だって低潮期には少なくなかったのではなかろうか。
ところで、私には真勢易と聞いて世人の思い浮かべるものが、所謂脇差占や平四郎占、美人の妹圧死占などである点が甚だ面白くない。
あれらは完全に特殊例に属するもので、占例を紹介した後で、谷川龍山も「先生の占とても悉くが此のような神発のものばかりであったわけではない」と言っている。
これらが実際の占事のありのままの記録と見做して良いのかどうかも議論すべき点があるように思われるが、それは一先ず置いて、人並み以上の占者なら、絶頂期には神憑った占の一つや二つは必ず経験がある筈で、私でさえ、そういう経験を幾らか持ち合わせている位だ。
それが、爻卦やら生卦法やらによって多くの情報を引き出し得る占技を常法としている占者なら、絶頂期にああいう占を幾らか為しえたとして不思議ではないと私は思う。
まして、中州に霊感めいた能力が幾らかあったとしたら、言わずもがなである。
しかし、得てして霊感に頼る占者の絶頂期は実に短く儚いものだ。
中州の晩年がその前半生と共に謎に包まれているのは、その辺りの事情を物語っているのではないかとも思う。
また、中州の名占とされるものは、門人がこの得卦からどれだけのことが判りますかと問いかけたのに対する答えとして占考されているが、これらの占例が門人の書物に出ている以上、当たった占だけが載せられているのは当然過ぎるほど当然である。
龍山が「神明ノ占ハ神発ニアリ」「先生ノ占トテモ一一ニ如此ニハアラズ」と言っているのをよく玩味すべきではあるまいか。
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