左国占話の虚構に気付いた朱子
- 2017/05/28
- 12:00
漢代の易学が象数易に傾きすぎた反動から、その後は、王弼や程伊川など義理を重視して占筮を軽視する諸家が多く出たが、南宋の大儒・朱子は、再び『周易』を占筮のテキストと見做し、義理と占筮との総合をはかった。
従って、朱子は占いを肯定する立場である訳だが、単にそれだけに終わらないのが、その合理性の非凡なところで、左国が載せる易筮の記録について鋭い指摘をしている。
一つは、齊国の田氏のことで、齊を奪った田氏の先祖は、陳国の内乱から逃れて齊の国に仕えた陳敬仲であり、その末孫が後に勢力を持つようになって、到頭齊の国を奪うに至るのであるが、その陳敬仲がはじめて齊の国へ行って仕えた時のことが左伝の荘公二十二年の条に出ており、そこには偶観之否の占が出ていて、段々その家が盛んになって、八代の後にはこれに匹敵するような家は無くなるだろう、というようなことが書かれている。
それに対して、朱子はハハァこれはつまり八代の後になってその家が大きくなった所を見てから書いた、つまり、これは後から前の占のことを書いたのだという風に考え、齊を田氏が奪ったのは戦国の初めであるから、左伝は此の頃の人が書いたのだと推測した。
朱子は左伝というものは、多くは後来の人が書いたのだと云い、後に盛んになった家のことを見てから、その家が始めて興った時のことを遡って書くから、それで旨い当たった占が書けたのだというようなことを言って居る。
また、晋国は後に韓・魏・趙の三家が奪って小国になるのだが、魏に封ぜられる畢萬が晋に最初に用いられた時の占が閔公元年の条に出ていて、屯之比を得て畢萬の子孫が魏によって大をなすであろうという内容なのであるが、朱子の考えでは、やはりこれは魏の国が盛んになって、韓・趙とで晋国を分けてしまってから書かれたのであり、そして、魏の国は文侯・武侯・恵王の頃に盛大であったので、左伝が書かれたのは、その頃であろうと朱子は推測した。
子孫が繁昌している所から、その起源に遡って、その起源に関する記事から書き起こすというような考えは、今となっては取り立てて驚くには当たらないが、こういう直感的な洞察に、朱子の偉大さが表れているようにも思われる。
薮田先生に言わせると、朱子の仕事では直感的なものが多く優れていて、七考占のように理屈を先行させているものは出来が良くないということだ。
従って、朱子は占いを肯定する立場である訳だが、単にそれだけに終わらないのが、その合理性の非凡なところで、左国が載せる易筮の記録について鋭い指摘をしている。
一つは、齊国の田氏のことで、齊を奪った田氏の先祖は、陳国の内乱から逃れて齊の国に仕えた陳敬仲であり、その末孫が後に勢力を持つようになって、到頭齊の国を奪うに至るのであるが、その陳敬仲がはじめて齊の国へ行って仕えた時のことが左伝の荘公二十二年の条に出ており、そこには偶観之否の占が出ていて、段々その家が盛んになって、八代の後にはこれに匹敵するような家は無くなるだろう、というようなことが書かれている。
それに対して、朱子はハハァこれはつまり八代の後になってその家が大きくなった所を見てから書いた、つまり、これは後から前の占のことを書いたのだという風に考え、齊を田氏が奪ったのは戦国の初めであるから、左伝は此の頃の人が書いたのだと推測した。
朱子は左伝というものは、多くは後来の人が書いたのだと云い、後に盛んになった家のことを見てから、その家が始めて興った時のことを遡って書くから、それで旨い当たった占が書けたのだというようなことを言って居る。
また、晋国は後に韓・魏・趙の三家が奪って小国になるのだが、魏に封ぜられる畢萬が晋に最初に用いられた時の占が閔公元年の条に出ていて、屯之比を得て畢萬の子孫が魏によって大をなすであろうという内容なのであるが、朱子の考えでは、やはりこれは魏の国が盛んになって、韓・趙とで晋国を分けてしまってから書かれたのであり、そして、魏の国は文侯・武侯・恵王の頃に盛大であったので、左伝が書かれたのは、その頃であろうと朱子は推測した。
子孫が繁昌している所から、その起源に遡って、その起源に関する記事から書き起こすというような考えは、今となっては取り立てて驚くには当たらないが、こういう直感的な洞察に、朱子の偉大さが表れているようにも思われる。
薮田先生に言わせると、朱子の仕事では直感的なものが多く優れていて、七考占のように理屈を先行させているものは出来が良くないということだ。
(内藤湖南「支那歴史的思想の起源」参照)
南宋の大儒・朱子
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