占例学習の是非
- 2017/06/05
- 18:11
単語→文法→構文という英語学習における手順の王道は、実際には非効率であるという話も聞くが、今でも多くの人はこの順番で学習を進めているのではないかと思う。
これを易占の学習に置き換えれば、易のイロハ→経文→占例学習といった順序が王道路線ということになろうかと思うが、この占例学習に関しては一寸注意した方が良いと私は思っている。
同じ手順で表出される卦爻でも、白蛾流の象占で読むのか、高島流の辞占で読むのか、大きく分けて二通りの見方のあることは夙に知られたところであるが、それ以外に誰もが個々人の読み癖というのを持っているものだ。
畢竟、同じ師について研鑽しても、最終的には一人一流派になって行くとも言えるし、それは必ずしも悪いこととは言えないが、他人の占例を読む時は、或る程度取捨選択した方が良い。
人によっては、とんでもないアクロバティックな観法をする人もあるし、そういった常道でない占を頭に入れるのは、自身の占法がそれこそグチャグチャになって定まらなくなって来る危険性を孕んでいよう。
初学の頃には、新たな占例に接する度、「ほほぅ、こんな読み方もあるか」と、色々な観卦法を覚えるのが実に楽しいし、また、その分、自身も向上しているような気になるものだが、これが或る時点から、卦に対峙した時に、どうとでも読めるような気がして来て、断を下すのに不安を感じるようになって来る。
語学学習の場合、学習に供される教材は、一応それなりの名文が用意されていて(やたら反戦やら平和やらを力説するものが一昔前は多かった気がするが、今はどうなのだろうか)、また、そうでなくては困るのだが、占例は個々人がバラバラに出してくるものであるから、質の高低には当然相当のバラつきがあって、まさに玉石混淆の有様だ。
名文を書くには名文を読むことだというのは丸谷才一の言であったか、これを言い換えれば、名占を為すには名占例を読むことだ、とでもなろうか。
手当たり次第に読むことは止めて、これぞと思う占者のものを、系統立てて読むことを、特に初学の方にはオススメしたい。
私がかく申すのは、卦の表出は占者の内部ルールに基本的には従うものと考えているからだ。
自身について言えば、時系列で占例をまとめて拝読したのは、林成光、小林喜久治、麻野勝稔といった諸先生方である。
ただ、私の占が諸先生方のそれとあまり似ていないのは、ひとえに己が浅学菲才の為せるところであることを予め断っておく。
これを易占の学習に置き換えれば、易のイロハ→経文→占例学習といった順序が王道路線ということになろうかと思うが、この占例学習に関しては一寸注意した方が良いと私は思っている。
同じ手順で表出される卦爻でも、白蛾流の象占で読むのか、高島流の辞占で読むのか、大きく分けて二通りの見方のあることは夙に知られたところであるが、それ以外に誰もが個々人の読み癖というのを持っているものだ。
畢竟、同じ師について研鑽しても、最終的には一人一流派になって行くとも言えるし、それは必ずしも悪いこととは言えないが、他人の占例を読む時は、或る程度取捨選択した方が良い。
人によっては、とんでもないアクロバティックな観法をする人もあるし、そういった常道でない占を頭に入れるのは、自身の占法がそれこそグチャグチャになって定まらなくなって来る危険性を孕んでいよう。
初学の頃には、新たな占例に接する度、「ほほぅ、こんな読み方もあるか」と、色々な観卦法を覚えるのが実に楽しいし、また、その分、自身も向上しているような気になるものだが、これが或る時点から、卦に対峙した時に、どうとでも読めるような気がして来て、断を下すのに不安を感じるようになって来る。
語学学習の場合、学習に供される教材は、一応それなりの名文が用意されていて(やたら反戦やら平和やらを力説するものが一昔前は多かった気がするが、今はどうなのだろうか)、また、そうでなくては困るのだが、占例は個々人がバラバラに出してくるものであるから、質の高低には当然相当のバラつきがあって、まさに玉石混淆の有様だ。
名文を書くには名文を読むことだというのは丸谷才一の言であったか、これを言い換えれば、名占を為すには名占例を読むことだ、とでもなろうか。
手当たり次第に読むことは止めて、これぞと思う占者のものを、系統立てて読むことを、特に初学の方にはオススメしたい。
私がかく申すのは、卦の表出は占者の内部ルールに基本的には従うものと考えているからだ。
自身について言えば、時系列で占例をまとめて拝読したのは、林成光、小林喜久治、麻野勝稔といった諸先生方である。
ただ、私の占が諸先生方のそれとあまり似ていないのは、ひとえに己が浅学菲才の為せるところであることを予め断っておく。
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