白石の易
- 2017/06/10
- 21:43
蒼流庵主人の如き凡庸な占者が、自らの筮に今一つ自身が持てず、事ある毎に、青木良仁先生の手を煩わせていることは、先に白状した通りであるが、私淑した広瀬宏道先生(1925~2015)も、自身に関する重要な事柄に関しては、いつも小林喜久治先生(1927~1995)に一筮を依頼していたという話を伺った時、聊か安堵の感を抱くと同時に、得卦に関する先生のお考えが、私と大同小異であるように思われて、我が意を得たりという気がしたことを思い出す(小林喜久治先生の最晩年の占が有名な自身の病に関する誤占であることと考え合わせて、不謹慎ながら面白くもある)。
そして、実を言えば、神業のような占技を誇る青木先生でさえ、同じような感触を持たれているというのである(否、神業のような占技を誇る先生だからこそであろうか)。
それどころか、朱子学の第一人者であった新井白石(1657~1725)ですら、今日の我々と同様であったというのだから面白い。
白石といえば、六代将軍・徳川家宣の侍講として、御側御用人・間部詮房と共に、幕府の中枢で権力を振るい、所謂“正徳の治”を開いた政治家であるが、七代将軍・家継が夭折し、孰れかと言えば叩き上げの実行主義者である暴れん坊将軍が登場すると、元来武人の野卑を嫌う文治主義者の白石は疎んぜられて失脚、そうなると、かつての権力者もただの零落したオッサンに過ぎず、娘の縁談にさえ、苦労するようになる。
そこで、占筮によって縁談の吉凶を決しようとするのだが、自分では卦読みに自信がなく、同じ木下順庵門の室鳩巣(1658~1734)に、占考を依頼したことが、鳩巣に宛てた享保2年2月26日付の書簡に見えている。
書簡中「此ところの道理のとり様、此方には私心にひかれ候故か、決しがたく候故、御決断頼み奉り候」とあるが、この自信の無さが、単に私心にひかれた為か、それとも自身の失脚と関係した不安感から来るものであったのか、はたまた、私と同じ得卦観を持っていた為であったのかどうか、今となっては知るすべはない。
ただ、絵に描いたような文人政治家で、かつ、当時朱子学の第一人者であった白石(新井白蛾も白石を尊崇しており、白石の『同文通考』四巻に対して、『同文通考補校』四巻を著している)が、現代の我々とは比較にならない程、経文を読み込んでいたことだけは確かであろう。
ところで、この白石の書簡は、明治の終わりに刊行された『新井白石全集』(全六巻)の第五巻に収められているのだが、いくつか興味深く感じた点があって、まず「賤女縁組の事に付今朝蓍に問ひ候、占の事決し兼候故、貴兄思食を承り合せたき云々」とあり、“蓍”と言って“筮”と言っておらないところが目を引く。
竹で出来た筮竹は新井白蛾以降一般化して行くというから、白石は文字通り“蓍”を用いたもので、日本ではキク科ノコギリソウではなく、マメ科ハギ属のLespedeza juncea (L.fil.) Pers. var. subsessilis Miq.に「メドハギ」の和名が付けられており、白石は恐らくメドハギの茎を用いたものであろう。
また、此の縁談占の得卦は艮為山の九三六四の二爻変だったとあり、朱子学者たる白石は、『周易本義』の説く大衍筮法に拠ったことが窺われる。
そして、「二爻変の場合、得卦の2つの変爻の爻辞で占うが、上の方の爻を主とする。」という七考占に基づいて解釈を下そうとしたことも見えている。
白石が迷ったのは、六四の辞には「咎无」とあって悪くなさそうだが、九三の辞「其の夤を列く。厲くして心を薫す。」がどうも不穏に思われた点で、室鳩巣に確認したのは此の点であった。
鳩巣の返書は残っていないようだが、それに対する白石の礼状が全集に続けて収められており、どうやら、六四の辞に従うことを薦める内容だったようだ。
礼状には「一々其理を盡され候」とあるから、白石を安心させる長々とした解説が付されていたもののようであるが、鳩巣も又七考占のセオリーに従ったらしいところも面白い。
ちなみに、鳩巣は白石の一番の友で、白石の推挙によって幕府に仕えることになったのだが、吉宗によって白石がしりぞけられた後、鳩巣は失脚するどころか、吉宗の側近として享保の改革を推し進めた。
これが余程面白くなかったと見えて、白石は鳩巣が自分を陥れたと思い始め、晩年には疎遠になってしまったという。
これが事実なのか、老人の被害妄想に過ぎないのかはよく判らないが、学識は並外れていても人間としての白石は至って狭量な人物のようだ。
そういえば系譜こそ違うが、同じく朱子学を奉じた山崎闇斎も随分心の狭い人物であったことを思い出す。
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