平澤随貞
- 2014/01/17
- 20:34
門弟が1000人を数えたという平澤隨貞(1697~1780)は、主に宝暦年間(1751~1764)に一世を風靡した易占家である。
『米澤市史』や『国書人名辞典』には米沢出身と記載されているが、奈良場勝先生は、随貞の著『卜筮經驗』の巻頭や『卜筮樞要』の附言に下野国の生まれであると記されていることから、山形県米沢市の出身とするのは誤りであり、本当の出身地は、現在の栃木県佐野市並木町とすべきとされている。
元禄10年(1697)正月元旦に代々村の長を務めた家柄に生まれ、名は常知、字は左内、隨貞と号した。
十歳代の前半で、下野国を離れ、水戸の小川養軒に丸一年にわたって師事し、その後江戸に移った。
若い頃は、経済的に随分苦労した時期があったようだが、少なくとも50歳代には平澤流はそれなりの規模になり、江戸でかなり勢いを持っていたらしい。
随貞の占例はあまり残されておらず、具体的な平澤易断を知る資料には乏しいが、占法は断易や梅花心易の影響を強く受けたものであることが、著書から窺える。
また、今日最も流布している三変筮法の原型は随貞が考案したものとも言われている。
ただし、元々は梅花心易の立卦法にヒントを得たものと見え、卦を起こす順序は上卦・下卦の順である(白蛾の三変筮は現在と同じ下卦から起こす手順である)。
また、随貞は医術にも通じていたらしく、『医道便易』(1770年刊)は、易による我が国初の病占書である。
安永9年(1780)3月29日に江戸で没し、摩利支天で有名な上野の徳大寺に葬られた。
随貞の墓を確認しようと徳大寺に問い合わせたが、墓地は東京大空襲の際にほとんどが罹災し、僅かに焼け残った墓碑は、雑司ヶ谷の共同墓地(雑司ヶ谷墓地とは別)に移されたため、現在、上野の寺域には墓地はないという。
僅かに焼け残ったという墓碑の中に、随貞のものが在る可能性にかけて、共同墓地を調査してみたが、江戸時代の墓碑は数える程しか無く、やはり焼けてしまったようである。
松宮観山(1686~1780)といえば、兵学の分野で特に有名な儒者であるが、観山は平澤流の易を広めた最大の功労者という顔を持つ。
随貞は、あくまでも大道芸人的な売卜者であり、自身を儒者や易学者とは捉えていなかったようで、自身で著書を書き上げるような技量や学識は持っていなかったようである。
ところが、年齢も格も上の松宮観山が随貞の門を叩いて弟子となり、随貞の易を理論化し、書物として世に知らしめた。
『卦爻問荅』『卜筮經驗』などは、いずれも隨貞が口述し、観山が編集して成ったものである。
観山が果たした役割は、あたかも真勢流における松井羅州(1751~1822)のそれを彷彿とさせる。
観山は、奇しくも易占における師である随貞と同じ安永9年(1780)に95歳で亡くなり、龍寶山高源院(文京区大塚三丁目)に葬られた。
幸い、こちらの墓碑は現存している。
『米澤市史』や『国書人名辞典』には米沢出身と記載されているが、奈良場勝先生は、随貞の著『卜筮經驗』の巻頭や『卜筮樞要』の附言に下野国の生まれであると記されていることから、山形県米沢市の出身とするのは誤りであり、本当の出身地は、現在の栃木県佐野市並木町とすべきとされている。
元禄10年(1697)正月元旦に代々村の長を務めた家柄に生まれ、名は常知、字は左内、隨貞と号した。
十歳代の前半で、下野国を離れ、水戸の小川養軒に丸一年にわたって師事し、その後江戸に移った。
若い頃は、経済的に随分苦労した時期があったようだが、少なくとも50歳代には平澤流はそれなりの規模になり、江戸でかなり勢いを持っていたらしい。
随貞の占例はあまり残されておらず、具体的な平澤易断を知る資料には乏しいが、占法は断易や梅花心易の影響を強く受けたものであることが、著書から窺える。
また、今日最も流布している三変筮法の原型は随貞が考案したものとも言われている。
ただし、元々は梅花心易の立卦法にヒントを得たものと見え、卦を起こす順序は上卦・下卦の順である(白蛾の三変筮は現在と同じ下卦から起こす手順である)。
また、随貞は医術にも通じていたらしく、『医道便易』(1770年刊)は、易による我が国初の病占書である。
安永9年(1780)3月29日に江戸で没し、摩利支天で有名な上野の徳大寺に葬られた。
随貞の墓を確認しようと徳大寺に問い合わせたが、墓地は東京大空襲の際にほとんどが罹災し、僅かに焼け残った墓碑は、雑司ヶ谷の共同墓地(雑司ヶ谷墓地とは別)に移されたため、現在、上野の寺域には墓地はないという。
僅かに焼け残ったという墓碑の中に、随貞のものが在る可能性にかけて、共同墓地を調査してみたが、江戸時代の墓碑は数える程しか無く、やはり焼けてしまったようである。
松宮観山の墓(文京区高源院)
松宮観山(1686~1780)といえば、兵学の分野で特に有名な儒者であるが、観山は平澤流の易を広めた最大の功労者という顔を持つ。
随貞は、あくまでも大道芸人的な売卜者であり、自身を儒者や易学者とは捉えていなかったようで、自身で著書を書き上げるような技量や学識は持っていなかったようである。
ところが、年齢も格も上の松宮観山が随貞の門を叩いて弟子となり、随貞の易を理論化し、書物として世に知らしめた。
『卦爻問荅』『卜筮經驗』などは、いずれも隨貞が口述し、観山が編集して成ったものである。
観山が果たした役割は、あたかも真勢流における松井羅州(1751~1822)のそれを彷彿とさせる。
観山は、奇しくも易占における師である随貞と同じ安永9年(1780)に95歳で亡くなり、龍寶山高源院(文京区大塚三丁目)に葬られた。
幸い、こちらの墓碑は現存している。
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