問考分離
- 2017/06/16
- 23:06
所謂“左国占話”は、その全てをありのままの実事の占の記録とは認めかねるとは言え、それはやはり最古の占例であり、秦漢以前の占法を反映したものと見て差し支えないと思う。
しかし、残念ながら収載された筮話は僅か二十例に満たず、朱子の七考占のように、そこから当時の占法の法則を抽出しようとするには、サンプルが少なすぎるようだ。
従って、私は具体的な占例の検討にはさして興味が無いのだが、『左伝』や『国語』を拾い読みして、注意を引かれた点が一つある。
それは、問占者と占考者が別々になっている“占の分業”がかなり多くの占話に見られる点で、『左伝』では、閔公元年の「畢万の仕官に対する占」、僖公十五年の「伯姫の婚媾吉凶に対する占」、成公十六年の「鄢陵の戦いに対する占」、襄公九年の「穆姜の東宮幽閉に対する占」、襄公二十五年の「崔武子が棠姜を娶る際の占」、昭公五年の「穆子の身命に関する占」、昭公七年の「元を衛の国君に立てんとする占」、昭公十二年の「南氏謀叛の成否に対する占」、『国語』では、晋語巻四の「重耳の入国に対する占」などがそうだ。
そして、この分業は筮占に限らず、亀卜においても同様の例が端々に見えており、『左伝』では、文公十三年の「遷都の可否に対する占」、文公十八年の「斉公の死命に対する占」、哀公九年の「鄭を討つ可否に対する占」、『国語』では、晋語巻一の「驪戎の討伐に対する占」などを見ると、亀甲獣骨をあぶり焼く者とそれによって生じた卜兆を読み説く者とが別々になっていることが判る。
その理由はよく判らないが、私の経験から推測するに、これもまた的確な占を成す為の一つの方法と言うか、安全弁のようなものであったのかもしれない。
他人が立てた卦を傍観者として眺めると、当事者よりも客観性を保つことが出来るからか、その占の核心となる部分や立筮者自身による占考のアラなどが、より的確に見える事が多いということは、研究会等で多人数での占例検討をした経験のある人なら容易に理解共感されることと思う。
占の分業には、同時に「応卦を得る」という読卦ではなく立卦に関する秘訣めいたものも包含されているように思うところがあるが、これはまた後ほど披瀝してみたい。
しかし、残念ながら収載された筮話は僅か二十例に満たず、朱子の七考占のように、そこから当時の占法の法則を抽出しようとするには、サンプルが少なすぎるようだ。
従って、私は具体的な占例の検討にはさして興味が無いのだが、『左伝』や『国語』を拾い読みして、注意を引かれた点が一つある。
それは、問占者と占考者が別々になっている“占の分業”がかなり多くの占話に見られる点で、『左伝』では、閔公元年の「畢万の仕官に対する占」、僖公十五年の「伯姫の婚媾吉凶に対する占」、成公十六年の「鄢陵の戦いに対する占」、襄公九年の「穆姜の東宮幽閉に対する占」、襄公二十五年の「崔武子が棠姜を娶る際の占」、昭公五年の「穆子の身命に関する占」、昭公七年の「元を衛の国君に立てんとする占」、昭公十二年の「南氏謀叛の成否に対する占」、『国語』では、晋語巻四の「重耳の入国に対する占」などがそうだ。
そして、この分業は筮占に限らず、亀卜においても同様の例が端々に見えており、『左伝』では、文公十三年の「遷都の可否に対する占」、文公十八年の「斉公の死命に対する占」、哀公九年の「鄭を討つ可否に対する占」、『国語』では、晋語巻一の「驪戎の討伐に対する占」などを見ると、亀甲獣骨をあぶり焼く者とそれによって生じた卜兆を読み説く者とが別々になっていることが判る。
その理由はよく判らないが、私の経験から推測するに、これもまた的確な占を成す為の一つの方法と言うか、安全弁のようなものであったのかもしれない。
他人が立てた卦を傍観者として眺めると、当事者よりも客観性を保つことが出来るからか、その占の核心となる部分や立筮者自身による占考のアラなどが、より的確に見える事が多いということは、研究会等で多人数での占例検討をした経験のある人なら容易に理解共感されることと思う。
占の分業には、同時に「応卦を得る」という読卦ではなく立卦に関する秘訣めいたものも包含されているように思うところがあるが、これはまた後ほど披瀝してみたい。
スポンサーサイト