併占
- 2017/06/20
- 20:54
『左伝』襄公十三年の「五年計画占」は、再占と言って差し支えないものと思うが、『左伝』や『書経』が載せる他の占話には、再占と言うよりは“併占”とでも表現する方が適切と思われるものが幾つか見られる。
『書経』洪範の「三人占へば、則ち二人の言に従ふ。」や、同じく金縢の「乃ち三亀を卜す。すべて吉をかさぬ。」などは、慎重を期したいという現代の我々も等しく併せ持つ素朴な感情の表れに他ならず、『国語』晋語巻四の「重耳入国占」では、占星の結果を筮占によって担保しようとした例も見え、また、『史記』亀策列伝第六十八には「五占して其の多きに従ふは、有れども専らにせざるの道を明らかにするなり」とある(『史記』の此の箇所は『書経』洪範の三人占へば云々について言っているらしいのだが、三人が五占になっており、解するに諸説あるようだ。)。
また、『詩経』小雅中の杕杜に見える「卜も筮もよろしとし」というのも、卜と筮との併占について言ったものであろう。
実際、私を含めて凡百の占者は一つの占いの結果を完全には信じ切れず、同一の占題を複数種類の占技で以てアプローチするというような経験を大抵は持っているのではなかろうか。
すべてが一致すれば、一安心して結果に従う訳だが、そうそう全ての占の結果が一致するということは少ない。
従って、五占して其の多きに従うといった多数決を採用することになる訳だが、その根底に占術への不信が見え隠れしているのは否定できないようだ。
しかし、五経のような古い文献の記述を観ると、上古の人も其の心理はやはり人間、我々現代人とさして違わないように思える。
もっとも、穿った見方を出来ぬこともない。
卜官の類が何らかの陰謀に加担して意図的に国を過つということもありそうな話であるから、併占がそのような事態に対する安全弁として機能し得る可能性はある。
この場合、不信の対象は占ではなく、それを扱う人間ということになる訳だ。
『書経』洪範の「三人占へば、則ち二人の言に従ふ。」や、同じく金縢の「乃ち三亀を卜す。すべて吉をかさぬ。」などは、慎重を期したいという現代の我々も等しく併せ持つ素朴な感情の表れに他ならず、『国語』晋語巻四の「重耳入国占」では、占星の結果を筮占によって担保しようとした例も見え、また、『史記』亀策列伝第六十八には「五占して其の多きに従ふは、有れども専らにせざるの道を明らかにするなり」とある(『史記』の此の箇所は『書経』洪範の三人占へば云々について言っているらしいのだが、三人が五占になっており、解するに諸説あるようだ。)。
また、『詩経』小雅中の杕杜に見える「卜も筮もよろしとし」というのも、卜と筮との併占について言ったものであろう。
実際、私を含めて凡百の占者は一つの占いの結果を完全には信じ切れず、同一の占題を複数種類の占技で以てアプローチするというような経験を大抵は持っているのではなかろうか。
すべてが一致すれば、一安心して結果に従う訳だが、そうそう全ての占の結果が一致するということは少ない。
従って、五占して其の多きに従うといった多数決を採用することになる訳だが、その根底に占術への不信が見え隠れしているのは否定できないようだ。
しかし、五経のような古い文献の記述を観ると、上古の人も其の心理はやはり人間、我々現代人とさして違わないように思える。
もっとも、穿った見方を出来ぬこともない。
卜官の類が何らかの陰謀に加担して意図的に国を過つということもありそうな話であるから、併占がそのような事態に対する安全弁として機能し得る可能性はある。
この場合、不信の対象は占ではなく、それを扱う人間ということになる訳だ。
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