平澤随貞と新井白蛾
- 2014/01/18
- 17:56
新井白蛾(1715~1792)の易占上の師は、平澤隨貞(1697~1780)ではないかと言われてきた。
時代的な潮流もあったに違いないけれど、断易の影響を強く受けていることも似通っているし、実占にあってはどちらも三変筮を用いている。
白蛾の代表的著述といえる『易学小筌』であるが、実は随貞にも全く同じ『易学小筌』なる同題の著作があって、これは白蛾が書名を拝借したのであろうと紀藤先生は推測されているし、紀藤先生は、白蛾の「象意考」は、随貞の「卦象解」が原型であろうとも言っている。
新井白蛾は、かつて平澤随貞の門人であったが、事情があって袂を分かつことになったと随貞側の書物には記されており、奈良場勝先生は、対立原因のひとつは『周易』の形式に倣うかどうかという点にあったのではないかと推測されているが、はっきりしたことは判らない。
その随貞側の書物というのは、『卜筮樞要』「附言」の二項目で
寳暦年中京師ニ一士アリ。モト隨貞子ノ門ニ在テ易ヲ學ビシ者ナリ。故アツテ師ト决別シテ去リ、別ニ一家ヲ張皇シテ古易ト稱ス。著ハス所ノ書モ亦若干巻アリ。今其書ヲ見ルニ活法ノ真理ニ乏シク、経觧ニ拘泥セルコトママ見ヘタリ。或書ニ大壮ト夬ノ卦ヲ引テ活ノコトヲ述タレドモ全ク爻ノ進退ヲ説シマデ ニテ活法トハ云難カルベシ。
とある。
「或書ニ大壮ト夬ノ卦ヲ引テ活ノコトヲ述タレドモ」とは『古易一家言』の「病人之占」のことを指しているから、この決別した門人が白蛾を指すのは間違いない。
しかし、問題の『卜筮樞要』は文化9年(1811)の出版で、この時には随貞も白蛾も共に亡くなっており、完全に弟子筋の言い分であるから、必ずしも素直には受け取れない部分もある。
先に江戸で名声を博したのは平澤流であるが、白蛾が巧みな文才で著書を次々に世に送り出してからは、立場が逆転した節があり、平澤派の屈折がこのような記述となって現れたとも見られるからである。
しかし、私はやはり白蛾は随貞の門人であったと思う。
決別の理由は、周易の形式を尊重するか否かという点にもあったのかもしれないが、恐らくは、学があって飽く迄も儒者たらんとした白蛾にとって、如何に名人であったとしても市井の売卜者に過ぎなかった随貞は我慢のならない存在であったのだろう。
そのため、白蛾の学問遍歴には菅野兼山の名は残っても、平澤門下であった時代は消し去りたい過去として扱われたのだろうと思う。
しかし、この見方を正しいとするなら、白蛾は剽窃の徒ということになり、学があって易占の腕があったとしても、何とも不愉快な輩といえる。
白蛾は、謙卦を最も尊重しているけれど、薮田先生はかなり意地の悪い見方をしており、「彼が謙を好んだのは実は人が己れに謙遜であってくれることであったかもしれない。もっとも彼自身謙遜の語を吐いているところもあるが、これは心理学でいうリアクション・フォーメーション(反動形成)で、自慢高慢のうらがえしにすぎない。そのことは彼の文章に散見する自慢高慢の言辞でわかる。清盛が鎧の上に墨染の衣を着て、衣の隙間から鎧がチラチラ見えたように、謙遜の隙間から自慢高慢がチラチラのぞいているのである。」と、薮田先生の白蛾評はボロクソである。
時代的な潮流もあったに違いないけれど、断易の影響を強く受けていることも似通っているし、実占にあってはどちらも三変筮を用いている。
白蛾の代表的著述といえる『易学小筌』であるが、実は随貞にも全く同じ『易学小筌』なる同題の著作があって、これは白蛾が書名を拝借したのであろうと紀藤先生は推測されているし、紀藤先生は、白蛾の「象意考」は、随貞の「卦象解」が原型であろうとも言っている。
新井白蛾は、かつて平澤随貞の門人であったが、事情があって袂を分かつことになったと随貞側の書物には記されており、奈良場勝先生は、対立原因のひとつは『周易』の形式に倣うかどうかという点にあったのではないかと推測されているが、はっきりしたことは判らない。
その随貞側の書物というのは、『卜筮樞要』「附言」の二項目で
寳暦年中京師ニ一士アリ。モト隨貞子ノ門ニ在テ易ヲ學ビシ者ナリ。故アツテ師ト决別シテ去リ、別ニ一家ヲ張皇シテ古易ト稱ス。著ハス所ノ書モ亦若干巻アリ。今其書ヲ見ルニ活法ノ真理ニ乏シク、経觧ニ拘泥セルコトママ見ヘタリ。或書ニ大壮ト夬ノ卦ヲ引テ活ノコトヲ述タレドモ全ク爻ノ進退ヲ説シマデ ニテ活法トハ云難カルベシ。
とある。
「或書ニ大壮ト夬ノ卦ヲ引テ活ノコトヲ述タレドモ」とは『古易一家言』の「病人之占」のことを指しているから、この決別した門人が白蛾を指すのは間違いない。
しかし、問題の『卜筮樞要』は文化9年(1811)の出版で、この時には随貞も白蛾も共に亡くなっており、完全に弟子筋の言い分であるから、必ずしも素直には受け取れない部分もある。
先に江戸で名声を博したのは平澤流であるが、白蛾が巧みな文才で著書を次々に世に送り出してからは、立場が逆転した節があり、平澤派の屈折がこのような記述となって現れたとも見られるからである。
しかし、私はやはり白蛾は随貞の門人であったと思う。
決別の理由は、周易の形式を尊重するか否かという点にもあったのかもしれないが、恐らくは、学があって飽く迄も儒者たらんとした白蛾にとって、如何に名人であったとしても市井の売卜者に過ぎなかった随貞は我慢のならない存在であったのだろう。
そのため、白蛾の学問遍歴には菅野兼山の名は残っても、平澤門下であった時代は消し去りたい過去として扱われたのだろうと思う。
しかし、この見方を正しいとするなら、白蛾は剽窃の徒ということになり、学があって易占の腕があったとしても、何とも不愉快な輩といえる。
白蛾は、謙卦を最も尊重しているけれど、薮田先生はかなり意地の悪い見方をしており、「彼が謙を好んだのは実は人が己れに謙遜であってくれることであったかもしれない。もっとも彼自身謙遜の語を吐いているところもあるが、これは心理学でいうリアクション・フォーメーション(反動形成)で、自慢高慢のうらがえしにすぎない。そのことは彼の文章に散見する自慢高慢の言辞でわかる。清盛が鎧の上に墨染の衣を着て、衣の隙間から鎧がチラチラ見えたように、謙遜の隙間から自慢高慢がチラチラのぞいているのである。」と、薮田先生の白蛾評はボロクソである。
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