初心者の名占
- 2017/08/07
- 19:56
年輪を重ねて修練を積めば上達向上を見るというのは、どんな分野にも共通していそうに思うが、必ずしもそうとばかりは言えないらしい。
占いの分野では、意外に初心の頃に名占と思しき経験が集中する傾向があるようだ。
単なるビギナーズラックの類と思えなくもないが、それにしてはかかる経験を頻繁に耳にするような気がする。
私自身もそうであるし、今でも神業としか言いようのない青木先生の占技にはいつも驚かされてばかりだが、学生の頃は今以上に冴え渡っていたという話だ。
熊崎健翁も、最初占いを否定する為に研究を始めたという話だが、恐らくは初心の頃に同様の経験を重ねた事から、ミイラとりがミイラになったものではあるまいか。
年季の入る毎に腕が落ちるとしたら、むなしいこと此の上ないが(まさかそんな法則もあるまいが)、どうやら、或る占術に熟達した人でも、全く別の種類の占術に手を出し始めると、また同様の経験をすることが多いらしい。
私自身、周易をやり出して一年ほど経った頃に梅花心易の存在を知り、やってみるとこれがまた怖い位よく当たるという経験をした(その後、今一つ振るわなくなり、すっかり梅花心易から遠ざかって久しい。病占の時に稀にお世話になる程度である)。
果たしてこれは単なる偶然なのであろうか。
考えられることはいくつかあるが、知識が少ない頃の方が見方がシンプルである為、より素直な占断を下しやすいということはあるかもしれない。
色々なテクニックを覚えると、命式や卦爻から引き出せる情報量が増える訳だが、増えれば増える程、判断に迷いが生じることの多くなるのは当然であろう(以前、占例学習の是非と題した記事で類似の問題について触れている)。
しかし、不応卦肯定派である私は、上記に加えて卜占にはまた別の機構が関わっていると考える。
それは単純に初心者の執った筮では、読みやすい素直な卦が示されるというもので、『易学研究』の昭和28年10月号に載っている研究会の記録の中で、熊本から参加した高森惟敏という人(余談だが、黄小娥氏は此の人の紹介で紀藤元之介先生に習うようになったらしい)が「むづかしい卦ややさしい卦が何故に起るかを論ずる前に、日頃私の感じて居りますことを述べるなら、初心者が易しい卦を得る事が多く、少くとも、占事の実際が結着の迫つて居る時には、分り易い卦を得卦される事が殆んどの様です。又長年実占畑で修練された方に難かしい卦の出ることが多い様です」という発言をしている(この研究会の記録は他にも得卦論について示唆に富む発言が多くあり、いずれ機会を見て詳しくご紹介出来ればと思う)。
易の神様というのが居て、ベテランに対して読みにくい卦を示すというのは占者の上達向上を願う愛の鞭の一種なのかどうかよく分からないが、そんなことをする必要性がどこにあるのか私には丸で理解出来ない。
むしろ、初心者の新鮮な筮儀には、精神的なノイズが少ない為、阿頼耶識めいたところにアクセスしやすく、ベテランが惰性で執ると其の逆を行くことが多い、という風に私は解釈している。
ところで、この様に考えると、再筮を戒めた文言とされる蒙卦の「初筮は告ぐ。再三すれば瀆る。瀆るればすなわち告げず。」は、少し違った読み方をしても良いように思うのである。
つまり、初心の筮は告げる、しかし、再三筮を経験して惰性で卦を起こすようになれば告げない、という風に読み替えても意味は通るし、易占の実際に合致してもいるように思う。
また、初筮云々の前には「童蒙、我に求む。」が附いており、蒙卦にこの辞がかけられている点にも何やら味わうべきものがあるように感じる。
勿論、上記の読み方を経学者の前で話しでもしたら、奇説珍説の部類に入る僻論として、一笑に付される事自明であるが、言葉や文字というのは、時代時代で変化するし、新しい意味が付されることで広がりが生まれるという性質を持っているものだ。
たとえば、「元亨利貞」は元来「元(おおい)に亨る。貞(と)うに利あり」と訓ずべき意であったのだが、いつの頃からか貞に「正」の意が生じた為(もっとも白川静の説では元来貞字には正の意も潜在しているというが)、「元に亨る、貞しきによろし」というニュアンスが生まれ、後には、元亨利貞をそれぞれ四つの徳として解する説も生まれた。
これらは、易の原著者には思いもよらなかった読み方に違いないが、単なる卜筮の文句として見るより余程味わい深いし、実占上の広がりを付加した面もあろう。
話が横道に逸れたが、初筮云々における私の新釈は、易がもと旅行記だったとか、万世一系を説いた書物だとか、殷周革命の大ロマンを歌い上げた大叙事詩だとかいう説よりは、ずっと珍奇の度合いも低いはずだ。
ところで、「初心忘るべからず」は『風姿花伝』が出典だと思い込んでいたが、実際には二十年ほど後に書かれた『花鏡』に初めて出てくるものらしい。
孰れにせよ、初心を忘れず、初々しい心で筮に臨みたいものである。
スポンサーサイト