占機と初心
- 2017/08/08
- 21:21
しばらく私の得卦観を披歴して来た訳であるが、聊か言葉足らずで誤解を招いた点があったかもしれない。
勿論、卦の応不応における占機の重要性や射覆手品説など、論じたことの骨子は聊かも変更の必要がないと信じているが、これは占機を捉えていない筮は絶対に不応卦が表出されるとか、射覆は絶対に的中しないといった意味ではない。
実際、私もつまらぬことで筮を執ることが無いでもないし、宴会の幹事を任された時など、最終的な店の選定はいつも筮によって決めている(もっとも幹事にとっては是はつまらぬ占題とは言えないけれど)。
射覆にしても、公開の場で的中させ続けることの困難を言ったまでに過ぎない。
私の得卦観は、或る種の意識状態になった時に執る筮では、必ず応卦が表出されるという仮説の上に成り立っており、どうでも良い占題を扱う場合や人の視線を意識しながら占を行う場合には、易の法則にアクセスできない(易神が感応しないと表現しても別段差し支えない)というものである。
しかし、人間の意識状態というのは微妙に揺れ動き続けるものであるから、つまらぬ占題でさえ時にはアクセス出来る場合もあるという風に考えている訳だ。
そういう前提に立つと、必然性を前にして筮を執る場合と初心の頃の筮というものには、意識状態において(恐らく瞬間的なものであろうが)、何かしら共通したところがあるように思えぬでもない。
私が畏敬の念を抱き続けている御法川もも代先生のお宅を先日久しぶりに訪問させて頂いたが、相変わらず先生は自然体そのもので、必然性と初心とを其の筮が常に兼ねているようにお見受けしている(ご高齢を理由に占の依頼を謝絶するようになってもう5年ほどになられるようだが)。
もとより得卦論というのは甚だ神学論争めいていて、結論など出る筈のない主題であるから、私は易の神様が卦を示すという立場の人を攻撃しようとは思わないし、不応卦の存在を信じない人を否定しようとも思わないが、自身の得卦観から出た幾つかの易占法上の工夫があり、それらをご紹介する前提として、易占の機構についての私見を先に述べておく必要があった為に、長々と得卦談義を続けて来たという面のあることを申し述べておきたい。
勿論、卦の応不応における占機の重要性や射覆手品説など、論じたことの骨子は聊かも変更の必要がないと信じているが、これは占機を捉えていない筮は絶対に不応卦が表出されるとか、射覆は絶対に的中しないといった意味ではない。
実際、私もつまらぬことで筮を執ることが無いでもないし、宴会の幹事を任された時など、最終的な店の選定はいつも筮によって決めている(もっとも幹事にとっては是はつまらぬ占題とは言えないけれど)。
射覆にしても、公開の場で的中させ続けることの困難を言ったまでに過ぎない。
私の得卦観は、或る種の意識状態になった時に執る筮では、必ず応卦が表出されるという仮説の上に成り立っており、どうでも良い占題を扱う場合や人の視線を意識しながら占を行う場合には、易の法則にアクセスできない(易神が感応しないと表現しても別段差し支えない)というものである。
しかし、人間の意識状態というのは微妙に揺れ動き続けるものであるから、つまらぬ占題でさえ時にはアクセス出来る場合もあるという風に考えている訳だ。
そういう前提に立つと、必然性を前にして筮を執る場合と初心の頃の筮というものには、意識状態において(恐らく瞬間的なものであろうが)、何かしら共通したところがあるように思えぬでもない。
私が畏敬の念を抱き続けている御法川もも代先生のお宅を先日久しぶりに訪問させて頂いたが、相変わらず先生は自然体そのもので、必然性と初心とを其の筮が常に兼ねているようにお見受けしている(ご高齢を理由に占の依頼を謝絶するようになってもう5年ほどになられるようだが)。
もとより得卦論というのは甚だ神学論争めいていて、結論など出る筈のない主題であるから、私は易の神様が卦を示すという立場の人を攻撃しようとは思わないし、不応卦の存在を信じない人を否定しようとも思わないが、自身の得卦観から出た幾つかの易占法上の工夫があり、それらをご紹介する前提として、易占の機構についての私見を先に述べておく必要があった為に、長々と得卦談義を続けて来たという面のあることを申し述べておきたい。
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