蒼流庵易占法秘伝①
- 2017/08/12
- 14:37
秘伝やら奥義やらといった大仰なコケオドシが大嫌いなたちゆえに、思わせぶりな宣伝文句のセミナーなどを見ると嫌悪の感を覚えるのだが、自分の易占法にも秘伝的なものがない訳ではない。
もっとも、それがあればただちに優れた占が出来るといった性質のものではないし、所詮は小技の部類に入るものに過ぎないが、得てして秘伝等というのはそういったものが過半を占め、白蛾の秘伝集などを紐解くと、あまりに汎用性のないものばかりで驚かされる。
それから行けば、蒼流庵易占法秘伝はいくらかマシな内容に思うのだが、私と得卦観において相容れない人には、受け入れがたいものも幾らか含まれているので、そこは予め断っておきたい。
いずれも、経験上感得したもので、確信を伴った手応えを得ているものであるが、他者に試させて其の効用の程を確かめた訳ではない為、統計的な試用のデータは皆無である。
従って、あくまでも自らの経験を語るといった程度のご紹介に終始することになるが、幾らかでも同学諸氏のご参考になればと此処に開陳する次第。
さて、易に限ったものではないが、それなりに長くやっていると、時に自分が名人達人の域に到達したような錯覚を覚える程に的中を見る時期もある反面、さっぱり腕が振るわず、自信を喪失してしまうような時期もまた経験するのが普通であろう。
いわゆる“スランプ”というものである。
もっとも、スランプの到来というのは実力が向上している証であるらしく、和田秀樹の受験勉強本か何かで昔読んだが、勉強していない人間にはそもそもスランプなどなく、停滞期を抜けた途端、飛躍的に成績が上昇するのがスランプというものらしい。
スランプもまた善きかなと達観出来るくらいに構えていたいものだ。
ともあれ、鬱陶しいものには違いなく、脱出のコツみたいなものが各分野にそれぞれあるもらしい。
易占の場合、スランプ脱出の一つの方策として私がオススメしたいのは、立卦具を変えるという方法である。
私は、或る時偶然に、筮具を変えることで見違えるように的中する経験をしたことがあるが、よくよく考えてみると、初心の頃に名占が多いというよく知られた経験則に鑑みて、筮具を変えることには、初心に戻るという程の効能は無いにしても、気分を一新する効果くらいはありそうだ。
本当は、新調するのが良いのだろうが、筮竹など意外に高価で、頻繁に買い換えられるような代物ではないから、普段筮竹を主にしている人なら賽を使ってみるとか、イーチンタロット(私は一度も使ったことがないだけでなく、実物を目にしたこともない。普段占い用具の店に出入りしないためであろう。)にしてみるというのでも良かろう。
ただし、この方法は暫くスランプを経験している時にのみ有効なもので、普段から筮具を取っ替え引っ替えするのは、むしろ、それが得卦の不安定さとなって現れるようである。
ところで『史記』の亀策列伝第六十八で、司馬遷が面白いことを書いている。
略聞く、夏・殷は卜せんと欲する者は、乃ち蓍亀を取り、已むれば則ち之を弃て去る。
以為へらく、亀は藏すれば則ち霊ならず、蓍は久しければ則ち神ならずと。
(私がおおよそ聞いているところによれば、夏・殷の時代に占おうとする人は、メドギと亀甲を取り、占いが終わるとそれらを棄てた。
亀甲はしまっておくと効き目がなくなり、メドギは長くおいておくと不思議な力を失うと考えたのであった。)
(訳は新釈漢文大系本に拠った)
恐らく、これは占具そのものに神聖な力が宿っていると考えたところから来ていて、以前書いたように、占具に邪気が蓄積するとか、同じ道具を使い続けることで、惰性に流れるといった観点とは異なるようであるが、「略聞く」と前置きがしてあって、司馬遷が「私はこのように聞いている」と書いているところから、占具は使い続けるものではない、という認識が卜筮を掌る官の認識であったらしいことが判る。
また、亀甲や蓍が長く置いておくことで力を失うと仮定するなら、そういった占具を使うと占いが的中しないとも取れるから、この記述は当時の占者が不応の卦兆の存在を暗に主張していた傍証になるようにも思う。
話が逸れてしまったが、スランプに陥った時の脱出法の一つとして、記憶の片隅にでも藏しておいて頂ければ幸いです。
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