経文は暗記すべきか
- 2017/08/29
- 18:58
象占は兎も角として、辞占を主とするなら、卦爻辞は暗記しておくべきだという人が居る。
勿論、いつ何時無筮立卦の必要に迫られぬとも限らないから、暗記しておくに越したことはないだろう(周易は経書の中では小さいものであるから、それほど難しくはない筈)。
ただし、経文をそらんじることが出来るということは、テキストが不要であるということを意味するものではない。
この点は非常に重要であるが、理解していない人が多いようだ。
たとえば、紀藤元之介先生は、易の経文は全て暗記しておられたそうだが、鑑定に際しては必ずテキストを紐解いて確認しておられたというし(或は私と同じように全辞に目を通されていたのかもしれない)、薮田先生も同様であったことは先に見た通りである(薮田先生も暗誦するくらいのことはお出来になったであろう)。
結局のところ、重要なのは暗記しているという事実そのものではなく、暗記出来るほど読み込んだという点にあるのであって、ただ暗記していても、行間まで読み込んでいる位でないと、実際には浅薄な読みしか出来ていないに等しい。
ただ、暗記するだけなら、サヴァン症候群の人たちには朝飯前であろうが、彼らは意味は理解出来ないから、そんなことをしても何の足しにもならない訳だ。
ところで、明治くらいまでは、江戸の素読文化の内に育った人が大勢居たから、経文を暗誦出来る人も少なくなかったらしいが、根本通明あたりを最後の世代として、その後は絶えてしまったらしく、戦前、我が国支那学の黄金期を作った内藤湖南や狩野直喜といった偉人たちも経文を暗誦するということはもう出来なかったらしい(というようなことを吉川幸次郎がどこかで書いていたように思う)。
なお、他の経書と違い、易は分量が比較的少ないということもあるが、実占を積み重ねる中で生きた辞を学ぶことが出来るので、記憶するのは意外に難しくないと思う。
私は筮を執る回数が占業者のように頻繁でないから、さすがに一からの暗誦は出来そうに無いが、卦爻を求めた段階で8割方どのような内容が書かれているのか位は、フッと自然に出てくるので、外出先で無筮立卦を行っても、辞が思い出せずに判断出来なくなるといったことは殆ど無い(全く無いと言えば嘘になるけどネ)。
勿論、いつ何時無筮立卦の必要に迫られぬとも限らないから、暗記しておくに越したことはないだろう(周易は経書の中では小さいものであるから、それほど難しくはない筈)。
ただし、経文をそらんじることが出来るということは、テキストが不要であるということを意味するものではない。
この点は非常に重要であるが、理解していない人が多いようだ。
たとえば、紀藤元之介先生は、易の経文は全て暗記しておられたそうだが、鑑定に際しては必ずテキストを紐解いて確認しておられたというし(或は私と同じように全辞に目を通されていたのかもしれない)、薮田先生も同様であったことは先に見た通りである(薮田先生も暗誦するくらいのことはお出来になったであろう)。
結局のところ、重要なのは暗記しているという事実そのものではなく、暗記出来るほど読み込んだという点にあるのであって、ただ暗記していても、行間まで読み込んでいる位でないと、実際には浅薄な読みしか出来ていないに等しい。
ただ、暗記するだけなら、サヴァン症候群の人たちには朝飯前であろうが、彼らは意味は理解出来ないから、そんなことをしても何の足しにもならない訳だ。
ところで、明治くらいまでは、江戸の素読文化の内に育った人が大勢居たから、経文を暗誦出来る人も少なくなかったらしいが、根本通明あたりを最後の世代として、その後は絶えてしまったらしく、戦前、我が国支那学の黄金期を作った内藤湖南や狩野直喜といった偉人たちも経文を暗誦するということはもう出来なかったらしい(というようなことを吉川幸次郎がどこかで書いていたように思う)。
なお、他の経書と違い、易は分量が比較的少ないということもあるが、実占を積み重ねる中で生きた辞を学ぶことが出来るので、記憶するのは意外に難しくないと思う。
私は筮を執る回数が占業者のように頻繁でないから、さすがに一からの暗誦は出来そうに無いが、卦爻を求めた段階で8割方どのような内容が書かれているのか位は、フッと自然に出てくるので、外出先で無筮立卦を行っても、辞が思い出せずに判断出来なくなるといったことは殆ど無い(全く無いと言えば嘘になるけどネ)。
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