占例と治験例
- 2017/09/10
- 12:55
私は折に触れ、占における名人像が自己申告や弟子の記述によって作り上げられた虚像である可能性について言及してきた。
あくまで其の偶像を崇拝し続けたい向きには面白からぬものであろうが、私がこのような疑義を呈しているのは、医学の分野にも同様のことが観取されるからである。
例えば、漢方の分野では『日本東洋医学雑誌』や『漢方の臨床』といった学術誌に、治験例が豊富に収載されている。
そして、それらを読んでみると、鮮やかな治った例ばかり載せられているので、著者が素晴らしい名医のように見えてくるのも故無しとしないが、その実際が裏事情通の間では冷ややかに見られているということも決して少なくなかったりするのだ。
敢えて名前を書くと差し障りもあるので止めておくが、私などはむしろこういう媒体に執筆している数の多い人ほど、肝心の腕前の方は怪しいのではないかとすら思っている位で、私の習った先生は「本当に腕の良い臨床家のところには、ひっきりなしに患者が詰めかけるので、論文など書いている暇がなくなるはずで、沢山書いている人ほど暇があると見て良いのだ」と言っていた。
確かに、私が過去に接した優れた臨床家は、その殆どが寡作で滅多に筆を執らないような人も多かったように思う。
勿論、寡作でなければ藪だとまでは言えないだろうが、明らかにそういう傾向があるという風には感じる。
また、少し穿った見方をすると、治験例の発表というのは、名目上はそれを公開することで、薬の新しい使い方を知らしめようとか、問題点を提起しようとかいうことなのであろうが、実際には虚栄心を満たす為のものでないとは言えず、或いは自分の自信の無さを覆い隠すための所業であることも少なくないように思えてならない。
占例と漢方の臨床例は自己申告であるという点で似通ったところがある。
結局のところ、分子の部分だけが表に出て、当たらなかった例、治らなかった例という分母の部分は表に出ない。
普通我々は、分子のところだけを見て、名人だ名医だと根拠薄弱の虚像を作り上げているに過ぎないのである。
そして、当人に親炙した人は其の実際を直接に見聞するから、実像を知っているが、時代が下ると、なかば神格化されたような虚像が形成されるのは、易や漢方の分野に限らない。
合気道の植芝盛平(1883~1969)は、鉄砲の弾をよけることが出来たとか、瞬間移動の能力があったとか、在世中から色々なオカルトめいた奇譚に彩られた人物であるが、弟子の藤平光一(1920~2011)は、師に関するそういった話は作り話だとはっきり証言している。
名前は差し控えるが、誰もが知る易占の大家も、実際の的中率はそれほどでも無かった、という話を私は高弟だった人に直接聞いたことがあるが、たいていはそんなもんなんじゃなかろうかと思う。
勿論、その虚像を見て、それに近づくべく努力を積み重ねるというなら、虚像にも虚像なりの効用があるのかも知れないが。
あくまで其の偶像を崇拝し続けたい向きには面白からぬものであろうが、私がこのような疑義を呈しているのは、医学の分野にも同様のことが観取されるからである。
例えば、漢方の分野では『日本東洋医学雑誌』や『漢方の臨床』といった学術誌に、治験例が豊富に収載されている。
そして、それらを読んでみると、鮮やかな治った例ばかり載せられているので、著者が素晴らしい名医のように見えてくるのも故無しとしないが、その実際が裏事情通の間では冷ややかに見られているということも決して少なくなかったりするのだ。
敢えて名前を書くと差し障りもあるので止めておくが、私などはむしろこういう媒体に執筆している数の多い人ほど、肝心の腕前の方は怪しいのではないかとすら思っている位で、私の習った先生は「本当に腕の良い臨床家のところには、ひっきりなしに患者が詰めかけるので、論文など書いている暇がなくなるはずで、沢山書いている人ほど暇があると見て良いのだ」と言っていた。
確かに、私が過去に接した優れた臨床家は、その殆どが寡作で滅多に筆を執らないような人も多かったように思う。
勿論、寡作でなければ藪だとまでは言えないだろうが、明らかにそういう傾向があるという風には感じる。
また、少し穿った見方をすると、治験例の発表というのは、名目上はそれを公開することで、薬の新しい使い方を知らしめようとか、問題点を提起しようとかいうことなのであろうが、実際には虚栄心を満たす為のものでないとは言えず、或いは自分の自信の無さを覆い隠すための所業であることも少なくないように思えてならない。
占例と漢方の臨床例は自己申告であるという点で似通ったところがある。
結局のところ、分子の部分だけが表に出て、当たらなかった例、治らなかった例という分母の部分は表に出ない。
普通我々は、分子のところだけを見て、名人だ名医だと根拠薄弱の虚像を作り上げているに過ぎないのである。
そして、当人に親炙した人は其の実際を直接に見聞するから、実像を知っているが、時代が下ると、なかば神格化されたような虚像が形成されるのは、易や漢方の分野に限らない。
合気道の植芝盛平(1883~1969)は、鉄砲の弾をよけることが出来たとか、瞬間移動の能力があったとか、在世中から色々なオカルトめいた奇譚に彩られた人物であるが、弟子の藤平光一(1920~2011)は、師に関するそういった話は作り話だとはっきり証言している。
名前は差し控えるが、誰もが知る易占の大家も、実際の的中率はそれほどでも無かった、という話を私は高弟だった人に直接聞いたことがあるが、たいていはそんなもんなんじゃなかろうかと思う。
勿論、その虚像を見て、それに近づくべく努力を積み重ねるというなら、虚像にも虚像なりの効用があるのかも知れないが。
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