宇多法皇像(仁和寺蔵)
広瀬先生は生涯の過半を『周易』の解明に捧げられたが、或いはそれは先生ご自身に流れる“血”がそうさせたものであったか。
先生が佐々木源氏の後裔であることは先に書いた通りであるが、その佐々木源氏は元をたどれば宇多天皇(867~931)に行き着く。
宇多天皇は、在位期間(887~897)こそ僅か10年と短いものの、『周易』に取り分け縁の深い人物で、大学博士の善淵愛成より『周易』の進講を受けているのだが、この時のテキストは孔穎達の正義本で、正義の『周易』は王弼の註に依拠していて、宇多天皇の学んだ易学は老荘思想に基づいたものである。
今日、京都御所の東山御文庫には、宇多天皇の手になる『周易抄』が現存しており、これは『周易』の経文にヲコト点等の訓点を施した現存する日本最古の漢籍訓点資料という。
「古代日本における『周易』の受容」(河野貴美子著/『国文学研究』161巻所収.2010年)によると、『周易抄』に抄出された経文や注文の中には、現在通行の本文とは異なる異文が少なからず見出され、敦煌出土の写本に一致する文字もあり、宇多天皇が用いたテキストは宋刻本以前の写本時代の一異文を有し、『周易』の経文や注文の校勘の際には不可欠な貴重資料であるということだ。
宇多天皇宸翰周易抄(『書道全集』漢字部 第11所収.平凡社.1936)
私のような素人からすると、それほど大した書にも思われないが、それは兎も角、菅原道真の建議による遣唐使の停止や『日本三代実録』の編纂は、その僅か10年の在位期間中に行われており、また、漢籍研究の重要な資料である『日本国見在書目録』も宇多天皇の勅命によって編纂されていて、この天皇は我が国の文化史上、かなりの存在感を放っていると言って宜しかろう。
なお、日本医学中興の祖・
曲直瀬道三も宇多天皇の後裔を称しているのは面白い。
京都市右京区鳴滝宇多野谷
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