宇多天皇の血統が広瀬先生を易学研究に駆り立てたのかもしれないように、元来占いに何ら関心の無かった庵主が柄にもなく易学に取り組むことになったのも、或いは同様の理由であるのかもしれない。
儒教では自分から数えて五代前までを先祖として扱い、祭祀の対象とするそうだが、そういう点での最も古い先祖が千太郎という人であるのを知ったのは昨年のこと、ふと思い立って宇和島より取り寄せた曾祖父の除籍謄本によってであった。
この除籍謄本は、明治42年に千太郎が隠居して曾祖父の嘉平に家督を譲った際に作成されたもので、千太郎の生年は弘化四年とあるが、没年は記されておらず、いつ卒去したのかは判らない。
弘化四年といえば1847年で、同じ年にはエジソンや中江兆民らが生まれている。
いずれにせよ随分昔の話で、肌で感じられるような実感は湧かない。
それはさて置き、私が注意をひかれたのは、高祖父が他家から養子として入ったという事実で、浦辺庄八の長男とある点だ。
“ウラベ”と言えば、蒼流庵随想の読者諸氏はやはり“卜部”を連想されたと思うが、言うまでもなく、卜部は『令集解職員令』に「およそ亀を灼き、吉凶を占うは、これ卜部の執業」とあるように、かつて朝廷で亀卜を掌った品部である(吉田神道の創始者である吉田兼倶も卜部の系譜をひいている)。
丹羽基二の『日本姓氏大辞典』(1985)は、「卜部 = 占部・浦部に通用。古代職業姓」と記し、角川の『姓氏家系大辞典』(1900)は、断定は避けながらも「浦辺 ウラベ = これも卜部に等しきか」としている(wikipediaは根拠はよく判らぬが、「占部・浦部・浦邊とも表記する」と断じている)。
卜部で有名なのは、やはり壱岐対馬や伊豆であるが、中古初期の戸籍には下総や常陸、陸奥、筑前にも卜部を氏とするものが見えており、もしかすると、宇和島にもかつて卜法を行った人々が居て、千太郎の浦辺氏もまた卜部に連なる氏族であったのかもしれない。
現在、電話帳を見る限り、宇和島に浦辺氏は一件も無いようで、上記はあくまでも想像に過ぎず、千太郎は遊子浦(ゆすうら)の出身となっているから、浦辺の浦は単に遊子浦の浦を採っただけで、明治に入ってから勝手に名乗った姓なのかもしれないが、私は顔も没年も判らぬこの高祖父のことを想うとき、やはり卜部氏との関係を考えずには居られないのである。
追記:
「易ハ不測ノ妙アリ」の真勢の言葉を思い出して、千太郎の浦辺氏について卦を立ててみたところ、兌為沢九二であった。
兌は西方の卦、大阪から見て宇和島は西方(正確には西南であるが)であり、重卦は彼我等しきであるから、私は浦辺はやはり卜部であると見る。
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