わが国に儒学が伝来しましたのは五世紀のことでありますが、その後、中臣鎌足は百済の帰化僧旻法師から周易の講義を聴いたと伝えられております。
大化の改新(六四六)後にできた大宝律令によりますと、大学で周易は他の経書と共に教科目であり、後漢の鄭玄の注と魏の王弼の注とが併せ用いられました。
平安時代にはかなりの易書が伝来しておつたことは、日本国見在書目に漢唐の易書が二十種類余り著録されていることによって知られます。
平安時代には王侯貴族の間に易を研究する者が相継いであらわれました。
平安時代の易学は、鄭玄の注と王弼の注とが行われましたが、鎌倉時代に程朱の新註が新たに伝来し、博士家、禅門共に程朱の新註をも講究するようになりました。
殊に禅門では易学の研究が盛んで好んで程朱の新註を研究しました。
虎関とその弟子の中巌は易学の精通者として有名であります。
また足利学校では易学が未曽有の盛況を呈しました。
足利学校では王弼本を用い、博士家の菅家の点に拠り、その解釈は王弼の注、孔穎達の疏をもとにし、程朱の伝義を参酌してこれ折中しました。
僧柏舟は足利学校で易を学び、晩年近江の永源寺に住し、周易の伝授と著述に従事しました。
その著「周易抄」は我が国に於ける易学著述の最初を為すものであります。
この「周易抄」は主として王弼の注、孔穎達の疏をもとにした講義案でありまして、間々程朱の新註が取り入れられております。
~~~~~~~~~中略~~~~~~~~~
易占も周易の伝来と共に早くわが国に伝来しました。
記録によりますと、大江匡房は易筮を善くしたとありますし、藤原通憲(信西)は、当時に於ける易占の大家で、貴族社会にもてはやされていたということであります。
また足利学校の易学が天下に有名になったのは易占を中心としていたからであります。
伝説によりますと、我が国の易占は三善清行が弟の日蔵に伝えた系統が真言流で、清行が子の浄蔵に伝えた系統が宿曜流とされております。
私、先日道教学会に出席のため、高野山に参りましたが、何か真言流の易占の書がありはしないかと思つて、大学図書館を見ましたところ、ただ占星法の写本が数種類目に触れただけでした。
わが国の易占は遠く唐の僧、一行の系統を引くもので、一行は漢の孟喜、京房の易学を伝えた人でありますから、わが国の易占は京房易の流れを汲むものであります。
江戸時代には易占が極めて盛んで、新井白蛾、真勢中州はその道の権威でありました。
また巷には易者が氾濫しておりました。
鈴木由次郎講演「易学の変遷」(『易学研究』昭和45年11月号所収)より
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