宮内庁の図書寮や陽明文庫、京都大学等に、『周易要事記』という筆写本が蔵されており(京大本はデジタル公開されている。)、
足利学校における易伝授の実際を伝える重要な資料として知られているが、原本は柏舟が足利学校で学んだ一世快元および其の師である希禅の易学講述を筆録したものと考えられている。
この中に、我が国の易学伝授について記した個所があり、それによると、清行が日蔵に伝えたのが真言流で、同じく浄蔵に伝えたのが宿曜流、文江に伝えたのが算家流とあり、足利の易は真言流の系譜に連なるものであるという。
ここにある清行とは、菅原道真のライバルとして知られる三善清行(847~919)のことで、醍醐天皇に『意見十二箇条』を上奏した文人官吏として、また、占術家諸氏には、『易緯』をもとにした改元の思想である辛酉革命・甲子革命を唱えた人物として記憶されていよう。
活発な上書を行って道真追放の一翼を担った人物であるが、『延喜式』の編纂員でもあり、当時の占術の大家でもあった。
三善清行邸跡碑(醒泉小学校内/京都市下京区醒ケ井松原下篠屋59)
『今昔物語』巻二十四第二十五話には、「五条堀川ノ辺ニ荒タル旧家有ケリ。三善宰相、家無カリケレバ、此家ヲ買取テ、吉キ日ヲ以テ渡ラントシケル」とあるが、『中古京師内外地図』(寛延三年刊)は五条堀川の角に「三善清行亭」と記し、同様に『山城名跡巡行志』も、これを「三善清行故居」とする。
1970年、堀川五条にある醒泉小学校西側の敷地内に、写真の碑が京都市によって建てられた。
2014年の初訪時は、植栽に覆われていて全貌を撮影することが出来ず、2016年1月にようやく撮影に成功するまで、五回も通った想い出の碑である。
ところが、本年10月に再訪してみると、小学校の解体工事が行われていて、碑を確認することが出来なかった(醒泉小学校は、五条大宮を下がった所にある淳風小学校と統合するために今年2月に閉校したのだという)。
かなり徹底した完全解体工事のようで、碑が撤去されたかどうか不明(工事のおっちゃんは、碑については記憶にないという)。
またの機会に確認したい(無事であることを祈るばかりだ)。
三善清行卿墳(京都市左京区北白川上池田町)
所功著『三善清行』(吉川弘文館/1970)によると、銀閣寺から白川街道を東へ1キロほど入ったところ(比叡山ドライブウェイの途中)に、「参議 三善清行卿墳」と刻まれた自然石の碑があるというので、実際に足を運んでみたが、どうもそれらしいものが見当たらず、帰って調べ直したところ、清行卿墳を世話されていた山本家が2004年に土地を手放した際、麓にある山本家の敷地内に碑を移転したことが判った。
翌月訪問して事情を話したところ、快く入れて頂き、ようやく三善清行卿墳を掃苔することが出来た時は嬉しかった。
所氏の本には“古老の話では、これを「三善地蔵尊」と呼んで昔から大切に管理してきたというが、現存の墓碑は、どうみても中世以前のものとは思われない。”とあるが、墳そのものは大正12年の建立というからごく新しいものである。
また、所氏の本によると、“清行の墓は、西寺金堂の近傍にあったとか、北野天満宮の近辺にあったという伝説もある。”ということだ。
三善清行天象を見て菅公に書を奉る図(『扶桑皇統記図会』より)
好花堂野亭(1788~1846)の『扶桑皇統記図会』には、柳斎重春(1803~1853)の筆になる「三善清行天象を見て菅公に書を奉る図」が載せられている。
もっとも、これは江戸時代の人の目を通して描かれた清行像に過ぎず、占術の大家ということで、卓上には筮筒に入った筮竹と算木(なぜ三本しかないのだろうか)が描かれているが、あくまでも江戸時代の易者像が混入した図絵であると考えるべきものだろう。
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