2009年の3月、出張で上京した翌日、丸一日休みを取って
荻生徂徠や
高島嘉右衛門、
曲直瀬玄朔らの掃苔を行ってから、ハカマイルに目覚めた庵主は、以来易学と傷寒論に関係した諸家の探墓掃苔に明け暮れる日々を送った。
誰言うとなく、掃苔家が“ハカマイラー”と呼ばれるようになって久しいが、2009年当時はまだ人口に膾炙した称呼ではなかった気がする。
恐らく、掃苔という地味で奇特な嗜好が世人に知られるようになったのは、歴史愛好女子いわゆる“レキジョ”の台頭がきっかけではなかろうか(彼女らの掃苔の対象は基本的に戦国武将か幕末維新の志士らしい)。
蒼流庵随想は、易学と漢方をテーマに開設したが、今各記事のカテゴリーを見ると、墓参録の記事数は他を圧倒して最多である。
現時点で、377記事書いているが、テーマから外れるため挙げていないものを含めれば、掃苔した数は400基は優に超えようし、発見に至らなかったものも相当数あるから、探墓箇所そのものは遥かに多い。
しかし、これだけ全国巡り尽くすと流石にネタ切れになって来るもので、もう候補地で未訪の場所といえば、対馬や五島といった孤島を残すのみだ。
そんなマンネリ故にという訳でもないのだが、一昨年から新たに始めたのが居宅跡の探訪で、これも現在ではあらかたやり尽くしてしまってはいるものの、それがきっかけとなってご子孫に巡り合い、貴重な資料や証言を得るといった学問上有益な収穫も幾らかあった。
そもそも、よく考えてみれば、墓所というのは、魂の抜け殻が葬られた場所に過ぎず、先師先学を追慕するよすがとはなるが、その人自身を感じようとすれば、さして適当な場所には思われない。
ところが、居宅跡はまぎれもなくそこで彼らが生活し、著述を行い、門弟を指導した場所であって、その偉業の舞台と言って差し支えない訳だ。
江戸時代には詳細な住宅地図がない為、正確な場所をピンポイントで特定することは難しいが、江戸後期の京都紳士録である『平安人物志』等の諸資料を紐解けば、京都に関してなら大凡の所在を知ることが出来る。
京都は何度も大火で丸焼けになっていて、往時の建物は殆ど残されていないとはいえ、縦横に走る通りは略そのままで、幾らかでも当時の雰囲気を掴むことが出来るが、これは京都ならではと言えよう。
しばらく、この居宅跡探訪について紹介し、イエマイルの啓蒙を行ってみたい。
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