名古屋玄篤~楽しいイエマイル~
- 2018/01/20
- 21:09
『良医名鑑』(『京都の医学史:資料編』より)
名古屋玄医といえば、古方派の鼻祖とされる医家であるが、その嗣子に玄篤という人が居て、玄医の『金匱要略註解』の冒頭に「男 玄篤 校正」と見えている。
自らの著述などはなかったようで、あくまでも玄医の医術を継承することに努めた医家であったと見られるが、その為、謎に包まれた人物であった。
しかし、一昨年、府立中之島図書館で種々の資料を渉猟していた折、手にした『平安名家墓所一覧』(山本東海編:1910)の中に、名を廸甫、号を允明といい、享保十八年四月七日に六十一歳で没したとの記述を見出した。
寺田貞次の『京都名家墳墓録』には、玄医の墓碑のそばに「允明斎惺々迪甫先生墓」と刻まれた墓碑があったことが記されている。
残念ながら庵主が数回探墓を試みた限りでは、すでに処分されてしまったらしく、無縁墓域にもそれらしい墓碑を見つけることは出来なかった。
『京都の医学史:資料編』に、当時宗田一先生(1921~1996)が所蔵されていた『良医名鑑』が収められているのだが、その中に玄篤の居宅は、御所西側の「武者小路烏丸西ヘ入ル南側」(下掲写真では左が南側になる)との記述がある。
もし、ここが玄医より引き継がれたものであったとすれば、入門しようとした若き日の後藤艮山が謝金の少ないことを理由に門前払いを食ったというのも、この場所であった可能性が高い。
そうすると、この場所こそ、日本漢方古方の震源地ということになるのである。
武者小路烏丸西ヘ入ル(左が南側)
スポンサーサイト