後藤艮山~楽しいイエマイル~
- 2018/01/23
- 19:28
『京都の医学史』第8章第二節に後藤艮山についての詳細な記述があり、それによると、艮山の生家は江戸常盤橋辺で、父母を奉じて京師におもむき、27歳の時に室町の相国寺西に僑居し、のち禁門前正親町に家一区を買って、ついに終焉の地としたという。
『平安人物志』では、明和五年版から文政十三年版に至る六つの版に、学者や医家として後藤氏の名が見えており、所在は明和五年版が「中立売室町西」、安永四年版が「中立売新町東」、天明二年版から文政十三年版までの四版では「中立売新町西」となっている。
これらを見る限り、同じ中立売通りを何度か転居したようだが、初代である艮山が住んだ正親町は明和五年版の「中立売室町西」と同じ場所であろうか。
付近には、「薬屋町」という町名もあって、現在は残念ながら薬屋は一軒もないようだが、かつて薬屋が軒を連ねた場所であったに違いない。
『平安人物志』では、明和五年版から文政十三年版に至る六つの版に、学者や医家として後藤氏の名が見えており、所在は明和五年版が「中立売室町西」、安永四年版が「中立売新町東」、天明二年版から文政十三年版までの四版では「中立売新町西」となっている。
これらを見る限り、同じ中立売通りを何度か転居したようだが、初代である艮山が住んだ正親町は明和五年版の「中立売室町西」と同じ場所であろうか。
中立売室町西(左『平安人物志』明和五年版より/国際日本文化研究センター所蔵)
付近には、「薬屋町」という町名もあって、現在は残念ながら薬屋は一軒もないようだが、かつて薬屋が軒を連ねた場所であったに違いない。
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